私たちのこころの中は、まわりの人には見えません。自分が何を思い、何を考えているかは、誰にも分かりません。
しかし、自分自身のこころの中を、自分はよく分かっています。そのとき何を考え、何を思い、どう決意したか、どうしようと思っていたか、ほんとうの自分はこうしたいというのに違う方を選んだとか。
自分にはよく分かっているはずです。
よく分かっているのですから、その結果がどうなるのかもよく分かっているはずです。
どう決意したら、どうなるのか。どう決意したから、こうなったのか。

私たちがみるその結果は、私たちの決意からつながっています。
誰も知らない、目に見えないこころの中でどんどん原因はつくり出され、つぎつぎに目に見えるかたちで結果が引き起こされています。
私たちは、その原因をつくり出すプロセスの一部始終を知っています。知っているというより、原因は私たち自身がつくり出しているのですから、百も承知しているのです。

さて、少し見方をかえてみます。
煙草の吸いがらの投げ捨て、空き缶の投げ捨ては、いくら呼びかけても、どんなにクリーン作戦を展開しても、なかなかなくなりません。路上はあたかもゴミ捨て場のように紙くず、ビニールゴミまでも捨てられています。

煙草の吸いがらを投げ捨てる人、空き缶を投げ捨てる人は、投げ捨てる瞬間に、こころのどこかがチクリと痛みはしなかったでしょうか。投げ捨てた瞬間、こころは晴れやかだったでしょうか。
誰にも見えないはずのこころの中のことなのに、どうしてチクリと痛かったり、どうして晴れやかな気分になれなかったりするのでしょうか。

もしも、私たちが投げ捨てはいけないことだと分かっていて、それでも投げ捨てたとして、それをじっと見ている誰かがいたとして、それがいけないことだと警告するために、こころのどこかをチクリと痛めたり、こころを晴れない気分にしているのであれば、これは一大事です。

どうして投げ捨てる?
これくらいのこと、たいしたことじゃない。めんどうだし、ゴミ箱は近くにない。
その投げ捨てられた吸い殻や空き缶を誰かが片付けることを知っています。自分以外の誰かが片付けることになることを知っています。要するに、自分で片付けなくても良い、ということだけが分かっているのです。そして見事に、割り切ります、たいしたことじゃないと。

もしも、私たちが投げ捨てた空き缶や紙くずが、家に帰って玄関に入ると、自分が捨てた分が何十倍にもなって積み上げられていたら、それが宇宙の法則だとすると、これは一大事です。

私たちが空き缶を投げ捨てても、とがめる人はいないでしょう。
しかし、私たちが投げ捨てた瞬間、もっと正確にいうと、投げ捨てようとこころの中で決意した瞬間に、投げ捨ててはいけないと分かっていながらそれを実行したという理由で、私たちの人生の生き方評価に大きなマイナス点が加算されているとしたら、これは一大事です。
昔の人は、よくいったものです。お天道様がみていらっしゃる。お天道様はお見通しじゃ。

達弥西心