たった一人でこの世に生まれて、たった一人でこの世を去っていく。人生のはじまりも一人で、最後も一人なら、たった一人でも生きていけそうなものですが、これがなかなかできません。人間はいつの間にかとてもさびしがり屋になってしまいました。
それでも、誰もが自由に生きていたいと思っているのです。自分は自分なりに生きていくんだと、こころに決めています。
一人で生きていくことと、自由に生きていくこと。どこがどう違うのでしょうか。

ある人が、あなたの立つ位置はそこじゃないもっと右だよ、と教えてくれます。すると今度は別の人が、いやそこじゃないもっと左だ、と言い出します。さらに、別の人が違う違うもっと後ろの方だ、と言います。
まわりの人の言うことで自分の立つ位置や、生き方を決めるとき、とても不自由を感じます。強い束縛感を感じます。でも、自分を束縛しているのは、まわりの人たちではありません。自分の立つ位置を自分で決めることができない、自分自身のこころがそうさせているのです。
自由に生きるということは、自分の立つ位置は自分で決めるということです。自分の人生は自分の足で立って、自分の足で歩いていくのです。つまり、一人で決めて、一人で生きていくのです。
一人で生きていくことと、自由に生きていくことは、まったく同じことなのです。
一人で生きていくことの決意、自由に生きていくことの決意。自分で決めるのです。決意するのです。

決意の前には、決別が必要です。まとわりつくすべてのものに決別できたとき、はじめて私たちはほんとうの意味で決意することができるのです。決別も決意も自分自身のこころの中だけのことです。

自立は自活のことではありません。独立とも違います。自立できなければ、自活も独立もできません。
自分のことは自分で決めるという精神面、自分の生活に関する費用は一人で稼ぐという経済面、人間関係を友好的に保ちながらも一人で立つという社会生活面、そのほか健康面、家庭生活面、教養面、あらゆる分野において自分の足で立つということが、自立するということの意味です。

決別とは、昨日までの自分の生き方に別れを告げるということです。
まとわりつくいろんな思いがあるでしょう。自立するためにはどうしても切って捨てなければならない思いがあるでしょう。背負っていくこころの荷物をすっかり軽くするのです。惜しい、もったいない、せっかくここまでやったのに、やっぱり気にかかる。こころがずっしり重たくなるような、そんな荷物をいったん捨ててしまうのです。

立志とは、めざす目的をしっかりと定めることです。その目的に通じる道をしっかりと定めることです。
どうして一人で生きていくことを決意したのか、どうして自由に生きることを決意したのかと問われれば、たった一言で答えられるはずです。それが自分にとって価値ある目的だからです。
自分の目的は、自分にとって価値がありさえすれば、それで充分なのです。

自分の自由は自分にしか分かりません。自分の自由は自分だけのものです。一人で生きていくことを決意する、本当の胸のうちは、自分にしか分かりません。分かるはずもありません。

人間はそもそも一人で一個です。一人が人間の最小かつ最大の単位です。人間はひとり歩きするようにつくられているのです。ひとり歩きすることが出来るものが、人間なのです。

達弥西心